太平洋戦争で、日米開戦時では勝っていた戦闘機の数と性能が、戦争が進むにつれて逆転していった大きな要因として、アメリカの戦闘機が徹底的に標準化されていたのに対し、日本のそれは一つ一つのネジまで違う工芸品に近いモノだったことが挙げられるそうだ。
SOTOCHIKU的に見れば、日本の戦闘機の方に俄然興味が湧くが、事が戦争であれば優劣は明らかだ。
ちなみに、日本の戦闘機は乗り手の腕によってその性能が引き出されるものだったというが、アメリカの戦闘機は誰が乗っても変わらぬ性能を引き出せるものだったと・・・。
ますます、ぼくは日本の戦闘機に引かれる。
だが、戦争は終わったにも関わらず、アメリカの戦闘機を優れていると見る人の方が多いだろう。
なぜだろう?
ぼくらは平和と呼ばれる世界でも、資本主義経済の下に、過酷な競争(=戦争)をしながら生きているという意識があるからではないか。
いや、そんなネガティブになる必要はない、という視点もあるだろう。
標準化はスマホを代表格としてさまざまな最先端の技術に世界中の人が関わることを可能にした。それは、素晴らしいことだ。
これから経済が行き詰っても、世界が食料危機に陥ることなく、自殺者も増えることなく、人々が安心して生きていける時代が来るとすれば、それは標準化の技術によってなされることの結果だろう。
標準化は、物理的には大きな効果をもたらし、精神的には個を置き去りにしてしまう。
間にちょうどよい落し処がないか、探している。