商業地域の表通りを歩くと、人を幸せにしたい、という建前や本音が交錯してカタチをなして、ぼくらに語りかけてくる。それぞれの店の一生懸命が、そのカタチをつくっているはずだ。これ以上はできないくらいに。
だが、それらはぼくを幸せにしない。
初めて見たときに、何か心が動くことはある。・・・しかし、長続きはしない。次に見たときには、感動は半分になり、その後もそれを繰り返し、やがて何も感じなくなる。
1960年代、70年代は、この国にとって幸せな時代だっただろう。人々は、人間がつくるものが素晴らしい未来をもたらすことを信じていた。だが、どんなものにもすぐ飽きてしまう自分たちを発見してから、その夢は急速にしぼんでしまった。
町の姿は、それを端的に表している。時代が進むにつれて、どの町へ行っても同じ空気しか感じられなくなってきている。だから、ぼくはもう何も感じなくなってきた。
少なくとも、それらはぼくを幸せにしない。
ぼくはつくづくこう思う。
「人間のつくるものはたかが知れている」
・・・表通りから横道へ逸れてみる。
少し空気が違ってくる。そこで、もっと小さな横道へ逸れてみる。
汚いものが目につき始める。同時に、・・・温かいものも心に入ってくる。そこでは表現らしいものは薄れてきている。ただ、人間の息遣いが聴こえてくる。
その空間は、太陽や風雨に晒されて、最初に人間がつくったカタチを留めていない。
ぼくは、確実に何か感じるに値するものを感じ取っていることに気づく。
新しくつくる空間に、その要素を与えたい。
ずっとその方法を探してきて、今やっとたどり着いた。