180万年前の遺跡に、介護を受けて生活をしていたはずの障碍のある人の骨が見つかったという。
大昔から、人類は障碍者を見捨てなかったことの証明である。
どうして介護したのか?
傍にあるその生命に健やかであってほしいと願うからだろう。
それはきっと、シンプルに自らの中から湧き起こるものとしての願いだ。
では、なぜ健やかであってほしいと願うのか。
人間は存在するだけで何をしなくても、常に余りある永遠を手にしているからだ。
だから、誰にもさらなる永遠を手にするために大きな機械の歯車になることを強制される必要などない。
これは宗教の教えではない。現代社会で詰め込まれた常識をいったん横に置いたときに見えてくる現実だ。
津久井やまゆり園事件の植松聖氏の犯行を批判しながら、自らに突き付けられる疑問に対して答えに窮している人はぼくを含めて大勢いるだろう。
その答えは、たぶんここにしかない。