gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

ぼくが勝負できるところ

1986年春。前の年に東アフリカからA型肝炎を持ち帰って入院。親が掛けていてくれた保険から1日5000円が給付され、これを資金にタイへ行った。偉そうなことは何も言えない。

 

ぼくは京大土木工学部の大学生で、バンコクの駅で例によって当てずっぽうに駅名を指さした結果、東北部コンケーンへ。長時間列車に乗った後、コンケーンへ着くとあまりに英語が通じないため、コンケーン大学で学生に話しかけることにする。

 

話しかけてみると、相手も土木工学部の大学生。今からバスに乗って、ある村の農業支援のために小さなダム(水溜)をつくりに行くのだ、と言う。一緒に行かないか、と言ってくれたから、二つ返事でホテルで荷物をまとめて、バスに乗り込む。

 

突如、彼らとの2週間のキャンプ生活が始まった。

 

村へ着くと、スコップで穴を掘り、バケツリレーで土を外へ出す。バケツリレーが炎天下の中、延々と続く。

 

穴が完成すると、二人で対になって丸太をポンポン落として土を固める。

 

鉄筋を曲げて、カゴを組んで穴に設置し、コンクリートを流し込んで完成。

 

ぼくは、鉄筋を曲げるところまでの参加だったが、彼らの働きぶりには感心した。村人たちもみんな出てきて参加。学生には女の子もたくさんいたが、何時間もノンストップで作業を続ける。いちばんヘトヘトだったのはぼくかもしれなかった。

 

村への総合的なボランティアだったから、コンドームの使い方を教えたり、疫病対策の注射をしたりもした。大学生たちの手際のよさに感心しながら、同行した。

 

大学生たちは皆まじめで優秀で、勉強する環境さえあればどの国もいつか経済面でも日本と肩を並べるようになると思った。

 

数十年が経って、実際にそうなった。それは、あたりまえのことで、すばらしいことだ。

 

夜になると、連日のように、火を囲んで村人もみんな集まって歌ったり踊ったりした。ぼくは、大学の先生に「トシ、なにか歌ってくれないか」と言われて、そのころタイでも知られていた日本の歌謡曲をいくつか歌った。

 

シーンとなって、歌い終わったら大きな拍手が起きた。それから、毎晩のように歌を頼まれて、ぼくはちょっとしたスターになった。

 

いろんな国を旅してこんな経験を繰り返しながら、だんだんと、ぼくが世界と勝負できるのは、学業よりも感性の部分だと思い始めて、今のような自分にたどり着いたのかもしれない。

 

夢のような時間を、そんなふうに思い返している。