ぼく自身は、正直に言うと、ファシズムでもない限り、同調圧力が明確に作用している場は嫌いではない。
自分が主張する必要を感じないことについては、その場の空気に合わせてしまえば波風を立てることなく居させてもらえるのだから、頭では自由に好きなことを考えて過ごせばよい。
関心もないことで争うことには全く意味がない。
ただ、ここは主張したいと思う部分に関しては、徹底的に主張する。主張することは同調圧力に対立する結果になるとは限らない。人を傷つけないように気をつければ十分だ。「どんなことでも、どちらが正しいわけでもないんだから」を前提としてから話す。
だから、ぼくがつくりたいパブリックな空間とは、一見してここが何のための場所であるかがハッキリしていると同時に、「私」が主体的に隠れ蓑の中に隠れたり、蓑から出てきて何かを表現したり、をためらいもなくできる空間だ。
そんな空間には、余計なもの(=場のコンテクストから外れたもの)があった方がいい。余計なものにも見えるし、融け込んでいるようにも見えるような存在のさせ方がよい。