gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

ずっと描いていた風景

柄谷行人は「日本近代文学の起源」の中で、風景とは近代文学によって発明されたものだ、という。

風景は昔からそこにあったのだけれど、風景として見られることはなかった、と。

風景として見るとは、例えばそれが人物であったとすれば、こちらが勝手に自分の心持ちを投影して、その人を眺める、ということである。

だから、その人は必ずしもその人である必要はない。交換可能なのだ。



例えば、ぼくたちが建物やお店のパースを描くときに、そこに人を配置することがある。

その人たちは特定の名前を持たない人物としてそこにいるだろう。風景としての人物とは、そういう人物だ。

そこには、「かけがえのない人」という視点がない。自分が投影されているだけなのだから。



つまり、風景には他者性がない。



空間づくりには、風景をつくる、という側面がある。

ぼくも、空間をつくる立場である限りは、自分にとって心惹かれる風景を、そこに実現しようとする。

つまり、自分を投影するのだ。

けれど、それが訪れる人にとって「かけがえのない空間」となるためには、同時に、普遍性を求めなければならない。



ぼくではなくて、全く外から来るもの。それが必要だ。(つづく)