人が集まる空間なら何でも「パブリックな空間」と呼んでいいと思う。
「多様な『私』というものが保証されるのが、パブリックという空間」であるならば、ぼくらがつくる空間がめざすことは、多様な「私」というものを保証することだ。
これまで、自分が過ごしてきた空間で、京都のバー「白樺」がそうだった。
網代の小料理屋「秀子」がそうだった。
建築を勉強した場所、SUNYのクロスビーホールがそうだった。
「私」でいられる場所。それを保証してくれる寛容。
ぼくが懐かしく思い出す場所は、そんな場所だ。