異端であることは歴史的に見れば不幸である。
多くの異端者が社会的に虐待されてきた。
歴史にその名を留める者にも、その仕事自体が当時は異端であると解釈され、処刑された者も少なくない。
その異端者に、その仕事を発表する勇気がなければ、もしくは、その仕事自体が社会によってもみ消されて伝承されなかったら、社会は今のようにはならなかっただろう。
実際、伝承されることなく、闇に葬られてきた発明が、無数にあるはずだ。
現在も、科学者の世界では、その研究が一度、異端と見なされれば、その世界から葬り去られてしまうらしい。
生活が成り立たなくなることを怖れて、科学者は新しい研究課題を正統であるとされるものの中から選び取ることを余儀なくされる。
アートの世界では、デュシャンが美術館に市販の便器を展示して以来、異端であること自体が価値と見なされるようになった。
デュシャンが迫害を受けた、とは聞いていない。
現在もアーティストの多くは生活を成り立たせることが困難だろうが、たぶん可能性を感じながらも先へ進むことができない科学者よりは幸福なのでは、と個人的に思う。