gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 シェルブールの雨傘

1964年。フランス。

小学生の頃、映画雑誌に載っているカトリーヌ・ドヌーブの写真を見て、なんて綺麗な人だろう、と思った。映画は観ていなくとも、外国の映画女優といえば、彼女の顔と名前が浮かぶようになった。

しかし、彼女の主演作品を観るのは、なんと今回が初めてだった。

映画自体は、全セリフがミュージカルになっていて、当時はさぞ斬新だったろう、と思う。いや今でも、斬新といえるかもしれない。

そこまでやるべき理由はなんだったろうか。当時の流行というのはあっただろうが、この映画自体は何を得たのだろうか。

例えば、オペラに親しんでいる人たちと、そうでない人たちは、ミュージカル映画に対して、全く違う印象を持つのではないか?私は、どちらかといえば後者だと思うが、やはり感情移入しにくいと感じた。

が、感情移入しやすい映画がいい映画だとは思っていない。感情移入できないことにより、私はこの映画に「深さ」を感じないが、このシンプルなラブストーリーの「形式」が浮き彫りになっているように感じる。

役者の印象は、通常の映画に比べて薄いだろう。実際、カトリーヌ・ドヌーブの歌唱はすべて吹き替えらしい。役者は交換可能なのだ。

映画もまた、愛する人ではない者と結婚しても幸福は成り立つ、と主張しているように見える。つまり、結婚相手も交換可能なのだ、と。

ただ、あまりにもシンプルなその「形式」ゆえになのか、悲劇について書いた以前の日記との関連を感じてしまう。

http://d.hatena.ne.jp/yogosiurubi/20090812

「正当に蒙るいわれのない不幸が存在する」ことが描かれているとは、このような映画をいうのだろうか。だとすれば、交換可能性は、そのまま交換不可能性へと逆転する。

カトリーヌ・ドヌーブという名前が交換不可能であるように。

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