カントは趣味判断を快・不快あるいは快適から区別している。快適は個別的であるが、趣味判断は普遍的であることを「要求」される。つまり、他人がその判断を受け入れるようなものでなければならない。(「トランスクリティーク」柄谷行人p.66)
他人がその判断を受け入れるようなものでなければならない、と同時に、受け入れることを強制してはならない、という。それは、共通感覚として社会に受け入れられるが、それに対立し、そこから逸脱するような諸個人−天才−によって歴史的に変化する、とされている。
共通感覚は、直ちに普遍的なものとはいえない。しかし、パラダイムシフトによって、更新されていくものという見方が成り立つ限りで、普遍的なものとみなされる。
それは、反証可能なかたちで提起される命題が、反証されない限りにおいて、その命題は普遍的であるとされるのと同じである。
私たちが提起している「汚しうる美」も趣味判断であると考えてよいだろうか。