gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

一を対象とする

大学で建築を学んでいるとき、都市計画の授業があった。つくる対象が建物ではなく、町や都市となるとき、なにかしっくりとこないものを感じたのを憶えている。

もっと言えば、建物の設計プロジェクトでも、その規模が大きいとき、例えば、駅ビルの複合施設などの規模になったとき、なにか私が設計してはいけないもののように感じられたことを憶えている。

それは、その空間に関係する一人ひとりの顔がイメージできないことに起因していたのだと今更ながら気付いた。

例えば、都市計画の授業である町の模型をつくるとする。ビルや家の数が莫大なため、一軒一軒で営まれる生活に想いを馳せることなどとてもできないだろう。そうであるなら、模型をつくる作業にどんな意味があるというのだ?

次は、森敦の『意味の変容』の中の文章である。


きみはあの薄暗い部屋の蛍光灯の下で、工員たちが黙々と活字を拾っているのを見ただろう。あれは文選工というんだ。文選工にとって、ケースにつめられる活字はたんに座標上の一点に過ぎない。また、座標上の一点に過ぎないようになるのでなければ、その文選工はまだ熟練工ということはできない。文選工はこうして活字を文選箱に満たすと、植字工に渡す。植字工はこれをステッキに移し、符号化し、記号化して、組みゲラの上に構造し、はじめて意味を生ずるものになるのだ。すなわち、

いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ対応するものとすることができない。対応するものとすることができなければ構造することができず、構造することができなければ、いかなるものもその意味を持つことができない。

この場合、原稿を書いた人と文選工は、別の人間である。だが、これが同じ人間だったらどうだろう?もし、文選工として働く時間が毎日の大半を占めるならば、よい原稿を書くことができなくなるだろう。そうなったら、意味は生み出されることがなくなってしまう。

現実には上記のような作業分担がなされている場合の方がむしろ少なくて、意味を発想し、それを取り去って対応し、構造し、意味を持たせることができるように動くのは、一人であることが圧倒的に多いだろう。

一人であるあらば、意味を取り去って対応しつつも、意味に戻る、そして、また意味を取り去って対応する、というフィードバックを繰り返しつつ、作業を進めていくより他にない。

そのような方法で意味を生み出そうとするならば、つくる対象が大きく複雑になればなるほど作業が困難になる。

先述の町の模型をつくるときに、一軒一軒で営まれる生活に想いを馳せることが困難であるように。

だから、その一軒を対象とする。一人ひとりの顔に想いを馳せる。私は、店舗空間一つ一つをコツコツとつくっていく今の仕事が性に合っているようだ。

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