関園子さんの写真作品のつくり方には、考えさせられることがある。
http://d.hatena.ne.jp/yogosiurubi/20110501
『関さんは、ご本人いわく「いちばん安いバカチョンカメラ」をポケットに入れて、気に入ったものをパシャッと撮る。そして、現像してもらった写真をどのように展示するか(額装するときの向き、並べ方など)について時間をかけて考える。「何を撮ったか」をカッコに入れて、素材として、ゆっくりといろいろな見方をして、意味を見い出す。』
「何を撮ったか」をカッコに入れる、ということは、つまり、シャッターを押したときの意図を、のちに意味を見い出すときの判断の材料にしないということである。
そのときに初めて出会ったように、写真に見入るのである。記憶をたどらない。
写真を撮るときと、プリントから意味を見い出すときとは、個人の思考としては断絶があるのだ。
ならば、写真を撮る人と、プリントから意味を見い出す人は、同じ人物でも別の人物でもかまわないのではないか。
私は、そこに創造性の連鎖の可能性を見い出す。
もちろん、関さんの写真作品から、私が素材としての情報を見い出すことも、創造性の連鎖である。しかし、作品の制作過程にも、創造性の連鎖の可能性があるのだ。
このことを、そのままグリッドフレームの制作過程に移すことができるだろうか。
私と002が設計したものを、現場担当と制作担当にリレーするときには、キーワードやパースによって引き継がれ、かたちが実現する。これは、写真を撮ってから、プリントができあがるまでの過程に対応する。
問題は、その後だ。
私と002は、まるで初めて出会ったようにかたちに見入る。記憶をたどらない。そして、かたちを変更したい部分に手を入れる。
その後、現場担当と制作担当が、まるで初めて出会ったようにかたちに見入る。記憶をたどらない。そして、かたちを変更したい部分に手を入れる。
これで、私たちの制作を終了し、クライアントに引渡す。
私たちにとって、大事なことは、引き渡し後も、クライアントや空間を経験する人たちに、創造性が連鎖されていくことである。そのためには、空間が開いている必要がある。まるで自然のようにそこにあって、意味を押し付けてこない空間。極論を言えば、快適性が保証されている必要すらない。人間がどう感受するかに任されている空間。
このつくり方によって、ゴールへ向かって一歩近づくことができるだろうか。