例えば、指のささくれのように、体の皮のほんの一部が剥がれたとき、体と剥がれた皮の部分は連続していて、だからこそ、何かに触れると「痛い」と感じる。
つまり、どこからが剥がれた部分で、どこからが自分の体に属しているのかが、あいまいな状態だ。
しかし、そうこうしているうちに、ポロッと皮が落ちるときが来る。
脳から命令されるまでもなく、細胞は、自分の体の内部と外部が未分化の連続体としての患部に、くっきりとした境界線を引き、それから先を外部として、自分の体から切り離す。
私はこの何気ない日常的な現象の残酷さに、ほんの一瞬だが、戦慄を覚えた。
柄谷行人が、葬式について書いていた文章を思い出した。
葬式は、肉体的に死んだ人間を、社会的に死なせる、という残酷な面がある、という内容だった。これも、知らないうちに境界線が引かれる、という一面に残酷を感じるという話である。
世界はこうして明日も今日のように在る。こうしているうちにも全体性を取り戻すための残酷な働きは、いたるところで日常的に作用している。