gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

日本にアメリカにあるような店がデザインされない理由について思い浮かぶこと

全米有数の危険な地域と安全な地域は隣り合わせにあることを大学の授業で教えられた。

例えば、私の住んでいたバッファロー市の中で、ダウンタウンは有数の危険地帯。大学の新校舎のあるアムハーストは有数の安全な地域。お互いに数キロしか離れていない。

デトロイトなど、危険なイメージのあるさまざまな都市にも、全米有数の安全な地域がごく近くにあるらしい。

日本のように、貧しい人たちにとっての憧れの生活は「丘の上」にあるわけではない。

まず、情報に政治的な意図が介入し、そのように誘導されているのだろうと想像される。どうしても、自然のなりゆきでそのようになるとは思えない。

憧れの生活はすぐそこにある、アメリカンドリームは遠くない、と貧しい人々に思わせることが、「人種のるつぼ」といわれるアメリカという国を治めるためには重要なのではないか。

才能のある者は階層を上ることができる、という気風は、大学の建築教育にも感じられた。

建築におけるさまざまなルールを修得することよりも、どのように空間を発想するか、という確固たる答えを各自が持つことを要求される。そこに必要なものは、独自の視点である。

アメリカでそのような教育を受けた私が空間デザインを愛する理由は、空間デザインは、小説や映画のようなジャンルと同じく、私の中の自然発生的なアイディアをかたちにすることが許されるジャンルであるからだ。

空間デザインは科学ではないから、仮説が真理であるかを証明する必要がないのだ。

だから、アメリカの空間は、個々の自然発生的なアイディアをかたちにする、という手法がとられることが一般的だと思われる。

それに対して、共同体の境界線がはっきりと引かれていることに安堵する気質を持つ日本では、まずはルールを学ぶことが、長きに亘って教育の基本であったと思われ、建築や空間デザインの分野においても、一部の著名人以外は、個人の自然発生的なアイディアをかたちにすることは許されないとされてきたのではないか、と想像される。

このような経緯から、アメリカ的な店舗空間には、必然的に外部性が入り込み、それをコントロールすることがデザインの主な作業になるのに対し、日本的な店舗空間には、そもそも外部性がない中で、既存の「流行る店」の条件を空間に入れ込むことがデザインの主な作業になる、という傾向が生じているのではないか。

グローバルであること、が前提となった現在では、もはやどちらが未来的であるかははっきりしている。アメリカ的につくられた店が、アメリカにあるような店になるとは限らないが、外部性がここちよく入り込む店を人々は求める時代になることだけは確実だと思われる。


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