KZ邸の最後の作業は、ガランス色のカーテンを掛けることだった。
手作業にこだわったプロジェクトの締め括り。
何億年もの命のリレーを繋いできた、生きるものとして互いの命を輝かせること。
それは、つくることを生業に選んだぼくたちにとっては、徹底して試行錯誤を重ねながら、つくることだ。
そのような機会をつくっていただいた全てに深く感謝をしたい。
KZ邸の最後の作業は、ガランス色のカーテンを掛けることだった。
手作業にこだわったプロジェクトの締め括り。
何億年もの命のリレーを繋いできた、生きるものとして互いの命を輝かせること。
それは、つくることを生業に選んだぼくたちにとっては、徹底して試行錯誤を重ねながら、つくることだ。
そのような機会をつくっていただいた全てに深く感謝をしたい。
どう考えたとしても、今、一人一人がこうして人間として生きていることは、それだけですごいことだ。
人類の歴史が始まるよりもずっと前から何億年も守られてこなければ、存在していないのだ。
どこで命のリレーが途絶えてもおかしくない危機を、きっと何万回も乗り越えてここにいる者たちだけが、今人間として生きているのだ。
人間は、他の生物と比べれば、とてつもなく凄い能力を持っている。同じ人間にも能力に個体差はあったとしても、他の生物から見れば、ほんの誤差範囲に過ぎない。
そんな一人一人の人間が、自分の得意なもの、好きなものを見つけて、その能力を地球全体のために生かすことにただ集中する。
すべての人間が、そのように生きることがそんなに難しいはずがない。
どうやらつくられた社会は、そのようには機能しないようだ。なぜか?
上述のように、すべての人間がすばらしい存在であることを、大多数の人が心から信じていないからではないか?
宗教である必要はない。ただ事実を見つめることだ。
ぼくは、デザインが仕事なのに、「文豪」みたいに時間を過ごしていると揶揄されてきた。
確かに、文章を書くことは好きだし、プライベートと仕事の境界はないと思っているから、いわゆる仕事っぽいことを仕事の時間にしていないことは多い。
そのような行動を面と向かって批判されることもあるが、ぼくは、ぼくの能力(=命)を最大限にこの世の中に生かしたい、としか考えていない。そのために自分が正解だと思う時間の過ごし方をするだけだ。
立場上、他人の生活に対する責任を言われるが、それぞれの人間がそれぞれの唯一無二の能力を確信してこの世の中に生かしていくよう望むのみだ。生活が成立するかどうかは、結果に過ぎない。
その優先順位を間違った人たちが、今の社会をつくったから、みんなが混乱している。
陽向の小学校の担任先生との面談があった。
親の目から見て、陽向は、未熟なところと感心するところがちょうど半分くらいずつを占めていて、どのくらいぼくらの経験から彼を誘導しようとすべきか、決めかねている。
自主性に任せたい、のはヤマヤマだが、つい口を出してしまうのが毎日だ。
学校はあいかわらず、集団行動がうまくできるように、という目標で指導してくださっている。
他人に迷惑をかけないように、という基準も時代によって変わってきている。賛同すべきか、判断がつきかねる。
とにかく、魅力的な人間に育ってもらうことが、ぼくの願いのすべてだ。
ぼくはどうやら、止まっていないと考えられないタイプかもしれない。
考えるということが言葉を必要とする行為であるとすれば、の話だ。
もちろん、柔道をやるときは、それなりに考えてやっていたように思うが、考えていたのは脳みそではなく筋肉だったかもしれない。相手の動きに合わせて、反射的に動くのを、頭で考えていたとは思えない。
緻密に考えてスポーツをするのは、きっとぼくには無理だ。動きながら、論文を書けるくらいの明晰さを持つ人もいるのだろうか。
動きながらでもアイディアが浮かぶことはある。それで勝った経験もあったかもしれない。でも、アイディアが浮かぶことは、考えることとはたぶん別だ。
自分のアイディアをカタチにするために、自分のスタイルを知ること。
これが創作する人がやるべきことだと思う。
数日ぶりに現場に戻って、空間が生きているのを感じられた。
生きているとは、どういうことか?
それぞれのつくり手の魂を感じられる、ということだ。
コロナ禍によって産業資本主義がいかにもろいか、を思い知らされて、それぞれの人の理想の生活像自体が変化してきているだろう。
ただ、多くの情報が飛び交っていて混乱しているために、今後を見通すことができず、なかなか言語化できる状況ではない人が多いのではないか。
ぼくなりにはっきりしてきたことを書くと、全面的に何かに頼っていればいい、という生活は終わった、ということだ。今までも、自立してやってきた、という思いを持っている人もいるだろうが、今まで自明だと思っていたことがそうではなくなっていくとすれば、自立を支えていた見えなかったものが揺らぐかもしれないのだ。
例えば、アメリカでは、清掃員が感染して、街中にゴミがあふれた、ということが起こったらしい。当たり前の生活を維持していくことすら、揺らぐ可能性に晒されている。どんなことだって、起こりうる。
ある意味、人間はサバイバルな事態に直面しているだろう。そして、普通ならそのような事態になると、人間は美的価値を追うことを放棄せざるをえない。
けれど、産業資本主義がつくってきた生活がある意味であまりにも生命感覚の薄っぺらいものであったがために、危機に直面することが生きている感覚を強めている今、むしろ、人間は美的感覚も研ぎ澄まされているのではないか、とすら思える。
ハウスメーカーはもう半世紀に亘って便利・快適な家をつくり続けきたけれど、コロナ禍になってぼくたちがつくらせていただいているプロジェクトは、ハウスメーカー的な家の中のリノベーションだ。大量生産建材の便利・快適な部分をあえて排除し、金属や石を素材として原初的な自然の中にいるかのような空間へ変える試みだ。
それは、半世紀前はまだそうであった、壊れているものを前提とした生活を積極的に選択することではないか?今後起こりうるどのような状況にも対処していける構えをつくるためには、つまり、誰かの掌の上に載せられた生活を降りることだ。