gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

当事者の消失

水俣病についてもそうだし、原爆や原発についてもそうだが、大きな問題を起こした当事者が次々と消えていく。

 

水俣曼荼羅でも、原告側は変わらないが、被告側は数年で入れ替わるのだから毎回違う。

 

そうなると、なんとか自分の任期を終えるところまで乗り切るのが、被告側の目標になるのが自然だ。

 

例えば、2004年に環境大臣として原告に謝罪した小池百合子も当事者ではない。その彼女が現在も水俣病を起こしたことに責任を感じていることなど、想像すらできない。

 

原告が裁判に勝利したとき、当事者ではない被告に心からの謝罪を求めること自体に無理があるのかもしれない。

 

では、当事者は、どのくらい自責の念に駆られて死んでいっただろうか?

 

個人差は大きいだろうが、もはやそれを考えても始まらない。

 

加害者側は、被害者が現在と未来においていかに幸せに暮らせるかに目標を設定すべきだろう。

 

幸せとは、お金の問題だけではない。周囲の環境全体を考慮して、被害者が失ったものを補って余りある状況に持っていくことをめざす。

 

だが、それは結局のところ、加害者側から被害者側へ物理的に償えるものではないのかもしれない。水俣曼荼羅のある登場人物のように、水俣病を患いながらも必死になって自力で生活する姿に当人が幸せを感じられたとしたら、そこに答えがあるのかもしれない。

 

その姿に感動し、幸せを心から祈る。そして、その人生を自分の人生に置き換えて考えてみる。それが不幸を再び起こさないためにできる唯一の道ではないか?