「取り残された」という感覚は嫌いではない。その寂しさは、ある種の美しさを伴うように感じるからだ。
なぜ美しさを感じ取るのだろう?
取り残されるとは、どのようにして起こるのか?
例えば、すっかり寂れてしまった遊園地があるとしよう。往時には、そこにたくさんの笑顔があったに違いない。子供たちの歓声があったに違いない。
その施設は、その笑顔や歓声のためにつくられたはずだ。
そこに行ってひとり立ち止まれば、笑顔や歓声に溢れたまぼろしの映像が脳裏をよぎるだろう。
そのとき、その映像は美しくないだろうか?
それは、その場所の「本然」に触れているからだ。
利他的であろうとして産み落とされ、当の他人にそっぽを向かれてしまったモノがひとり取り残される。
ぼくらはむしろ、そんなものに出会ったときに、人間を強く信じることができるのではないか・・・。
「取り残された」という感覚は嫌いではない。冒頭に、こう書いた。
いや、本当は、「取り残された」という感覚こそ、確かな価値のあるもので、その感覚を呼び起こす空間だけをつくっていきたい、という思いがあることを、ぼくはぼく自身の中に発見する。
SOTOCHIKUは、取り残された空間をつくるためにある。