gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

しげちゃんの願い

1990年代後半、グリッドフレームを立ち上げの頃に、工房絵という知的障碍者がアートを描く施設で展示のお手伝いやデスクルームの制作をさせていただいた。

 

施設の利用者の一人にしげちゃんと呼ばれる、ガタイのいい角刈りのおっちゃん風の若者がいて、通りを歩く女の子に名刺を配っては、「しげちゃんと呼んでください」と話しかけるのを日課としていた。彼の知的障碍は軽い方のように見えた。普通に会話が進む人だ。ちょうど、健常者と障碍者の境界上にいる人だと思う。

 

その彼が警察に補導されることが頻繁に起こっていたらしい。女の子に無視されて大声を出してしまったり、そんな類のトラブルだと聞く。

 

そんなしげちゃんを映したドキュメンタリー映画が当時撮られた。「まひるのほし」という。その中で彼は、優しく対応されたことのある女性へ、毎日手紙を書いた。それが、工房絵で彼がつくったアートだ。手紙は、几帳面な幾何学的な字体で書かれており、毎回同じ大きさの紙にほぼ同じ大きさの字で書かれているのに驚く。その丁寧さに表れる彼の真摯な思いの膨大な集積には心打たれるものがある。

 

しげちゃんの願いは、憧れの若い女の子たちに「しげちゃん」と呼んでもらうことだった。女性の水着に興味を持ち、種類を書き連ねながらも、願いはただそれだけだった。

 

突然話しかけられた人には、しげちゃんのことを怖いと思った人もいるだろう。だが、自分を客観視する力が弱いと思われる人の願いが、自分の名前を呼んでもらうことだけだという事実は、ぼくに深い安堵と温かな気持ちを与えてくれる。人間同士は元来もっと信じ合ってよいのだ、と。

 

そんな大事なことを気づかせる力を持っているのが、知的障碍者と呼ばれる人たちだ。その中でも、しげちゃんのように健常者との境界の上にいる人からは、いっそう強烈な力が発散される。

 

なぜなら、境界上にいる人が生きづらいのがこの社会だからだ。社会はカテゴライズすることでシステム化されていて、各カテゴリーにきっちりはめられた人の集団であった方が安定するからだ。境界を行ったり来たりする人は歓迎されない。

 

場合によっては、そういう人たちのために危険人物という新しいカテゴリーをでっちあげて、そこへ入れてしまう。ありもしない危険を、可能性として煽って見せて成り立つ商売もたくさんある。そうやって動き続ける資本主義社会の檻。

 

でも、カテゴリーに閉じ込められたぼくたちを外へ連れ出してくれるのは、彼らかもしれない。ぼくらの方が彼らに救われるのだ。

 

 

 

当時、しげちゃんに会ったとき、彼のことを名字で「西尾くん」と呼んだら、彼は不機嫌そうに「しげちゃんだよ!」とぼくをたしなめた。

 

昨年末にしげちゃんが急逝したと聞いた。心の中で 彼に呼びかけよう。「しげちゃん、おつかれさま」