大ヒット中のこの映画を、家族3人で観た。
この映画での鬼という想像上の生き物の特徴は、無限性(永遠性)だ。異形だが、醜いとも言い切れない。どこまでも醜くもなれるし、どこまでも美しくもなれる。可能性の幅が広い。どこを切っても、傷は再生する。そして、修行すれば、どこまでも強くなれる。
鬼の存在によって人間の有限性が際立たせられ、人間は最後は鬼に敗れながらも「有限だから美しい」と言い放つ。そして、鬼に対して「逃げるな!」と叫ぶ。
それは、「無限性へ逃げるな」ということだ。「有限性の中で戦え」ということだ。無限性の持ち主が、有限性の中に生きるものに勝ったとして、何を誇れるものがあろうか。
鬼に残された唯一の有限性は、その首にある。首を切断されれば、鬼は未来永劫、消滅する。屍すら残らない。
その有限性がなければ、鬼滅隊の存在意義はない。いくら切っても再生する相手では、闘う意味がない。
ここで疑問が生ずる。
鬼になれば首以外は、無限性を獲得できるのであれば、なぜ有限な人間でいようとするのか?
物語の中でも、最強の鬼が最強の人間を鬼の世界へ来ないか、と何度も誘う。
問いの答えは上述の「有限だから美しい」である。
だが、本当だろうか?
有限な人間は、無限を手に入れようと躍起になって生きていないか?
おそらく日本映画で史上最大のヒット作となるこの映画に、この問いかけを見出し、真剣に向き合う人間が数多くあったとしたら、日本はよくなるだろう。
そんな可能性は、今のところ、れいわ新選組の支持率くらいの確率しか見いだせないとしても。
ただ、陽向も含めて、未来をつくる子供たちには期待できるのかもしれない。