小学3年生の頃、算数の授業の中で「折り紙を長さを測らないで正確に3等分に折れますか?」という問題があった。
それぞれが折り紙を持って、しばらく試行錯誤をしたが、だれの手も上がらなかった。
ぼくは、「正確に」という言葉が気になっていた。見た感じでは3等分に折れるが、目見当が入ってきて、正確に折れる「方法」が見つからない。
そのうち、だれか女の子が手を上げた。見た感じでは3等分に折れている。さて、どんな方法だったのか?耳を澄ました。
でも、先生は方法を質問しなかった。「○○ちゃん、きれいに折れました。みんなで拍手しましょう!」と言って、その授業が終わった。
こんなに気持ちの悪いことはなかった。放り出された感覚を覚えた。それから40年以上過ぎても、しっかり憶えている所以だ。
3等分には、必ず目見当が入る。それが40年以上経った今では確信に変わった答えだ。
3等分の2本の線のうち、一本を折るとき、残りが2等分になるように目見当で折る位置を決める。
人間にはかなり正確に2等分の線の位置を測らずに決めることができるからだ。だが、1本目をきれいに折ってしまうまで、その能力を発揮できない。
結局、カンに頼るしかないのだ。
ともあれ、結果からすると、きれいな3等分に折ることができる。
しかし、厳密な話をすれば、どんな点を描いてもそれが面積を持つように、どんなにきれいに折られた線もそれは幅を持つ。
もしこれが、2等分に折るという問題で、端部を合わせて折る、という方法があったとしても、同様だ。
2等分も3等分も、観念に過ぎない。
現実の世界では、「正確に」は実現できないのだから、方法に目見当が入ろうが入るまいが、十分近似する結果をアウトプットできれば、OKだ、ということか?
でも、それはそれとして、方法を求める精神をだれも止められない。