gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 グラン・トリノ

クリント・イーストウッドが俳優として出る映画はこれで最後と言われているらしい。彼のファンにはたまらない映画のようだ。日本にはおそらく彼のファンが多い。

私にとっては、チャーリー・パーカーの生涯を描いた「バード」の監督というイメージである。ジャズ奏者を描く映画は、はかなく哀しいが、あたたかい。アメリカ人の「創造」に対する敬意は、日本とは比べものにならないほど大きい。「バード」は、敬意や愛情にあふれていた。

クリント・イーストウッドは、そんなアメリカ社会の良識のシンボル的な存在というイメージがふさわしいかもしれない。

この映画も、アメリカ社会の良識とは?という問いにあふれていた。あなたならどうするか?わたしなら、こうする。「グラン・トリノ」は、そういう映画だった。

役は、勧善懲悪の図式に明確に分かれている。ある意味、水戸黄門みたいなものだ。善人側へしか感情移入できない。

悪人側は、顔のない人々である。(http://d.hatena.ne.jp/yogosiurubi/20091025/1256488148

水戸黄門と違うところは、最後、やっつけてしまってスカッとして終わるわけではないことだ。ヒーローのクリント・イーストウッドが撃ち殺されてしまったのに、なぜか「死んだ」という感覚を得られずに、撃ち殺したギャングたちが捕まって、やはりスカッと終わってしまうのだ。

実は、この映画を観たのは、雑誌「BRUTAS」の泣ける映画特集で、この映画が数々の過去の名作を抑えて2位だったからだ。だが、一向に泣けなかった。この映画を観て泣く人は、「水戸黄門」で黄門様が入念に計画をした結果、自らの命を犠牲にして悪をやっつけたら、泣くのだろうか・・・。

だからといって、映画をけなすつもりは毛頭ない。クリント・イーストウッドは「ものをつくっていた頃のアメリカ」を取り戻そう、という強いメッセージを発信している。

フォードのグラン・トリノはその象徴として描かれている。