gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

思い通りになることなんてない

どんなに時間をかけて

丹精込めてつくられたものでも

壊すことは簡単だ

 

ひとつのものがつくられるスピードと

それが壊されるスピードを比べて見ればよい

 

とても頭の良い人でないとつくれないものを

どんな人でも頭を使わないで一瞬で壊せる 

 

だから、

どんなに未来を予測してつくられたものでも

必ず壊れる

 

絶対に大丈夫なものなんて存在しない

 

思い通りになることなんて何もないのだ

 

 

 

 

 

日溜り

夜が終われば 月が沈む

階段を下りてゆく途中

 

君の背中が 月に溶ける

思わず走り出した時間

 

走り続けて 探し続けた

言葉の限りを 宙に漂わせて

 

苦し紛れの 独りよがりの日々

見上げても何も見えなかった 日溜り

 

 

叫び続けて 喘ぎ続けた

たどり着くのは 遠い日のようで

 

苦し紛れの 独りよがりの日々

見上げても何も見えなかった 日溜り

 

(1990.3 京都にて)

 

 

建国記念日

最近は、月曜日以外の祝日が少なくなってきた感がある。

 

今日の建国記念日は火曜日。2月11日には、どんな意味があっただろう?・・・とこの年で初めて調べてみる。

 

「日本では、実際の建国日が明確ではないため、建国神話(日本神話)を基に、建国を祝う日として「建国記念の日」が定められた。当時在位中の昭和天皇は第124代天皇とされ、2月11日は、日本神話の登場人物であり、古事記日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とあり[2]、その即位月日を明治に入り、グレゴリオ暦に換算した日付である。」(Wikipedia

 

最近、近代以前の人々がどんな心持ちで生きていたのかを想像するのがおもしろくなった。

 

ゆったりと時間は流れていただろうか。一日中、釣りをしているような生活もあったかもしれない。

 

突然、襲われて、食べ物や家族を奪われることもあったかもしれない。

 

国、というものができて、野生動物の仲間として生きていた時代は終わりを告げたのだろうか。

 

争いがなければ、国は生まれなかっただろう。

 

ロボットが生活に必要な労働を代行してくれたら、貧しさを物理的になくすことはできるだろうか?

 

そうなったら、争いはなくなるだろうか?

 

そのとき、国は必要とされるだろうか?

 

世界はひとつになれるだろうか?

 

 

 

 

 

 

空と向き合う

曲がった急な坂道は

外側が空に開いていて

心はいつも今日の天気に向かう

 

そんな曲がり道では

その先に何が待っているか見えない

 

だから、曲がり道の内側にあるそのお店は

歩いているうちに突然現れる

 

「見つけた!」という気持ちになる

 

そのちょうどよいサイズの白い建物は

密集した住宅街にありながら

中にいたら、つい隣の存在を忘れてしまう

 

きっと空と向き合っているからだ

 

 

体を動かす

しばらく働きづめの日々が続くと、無性に体を動かしたくなる。

 

ああ、思い切り走りたい。

 

新型コロナウィルスで、いたるところで監禁状態にある感染の疑いがある人たちも、同じ気持ちでいる人がたくさんいるだろう。

 

勝浦の海沿いにある三日月ホテルに閉じ込められている人たちに向けて、地元の人たちが浜辺の砂に大きな文字を書いて、励ましている。

 

「あとすこし。がんばって。」

 

人の心は美しい。

 

 

ゆったりとした時間

陽向は塾に行きたいというが、現在の時間の過ごし方では時間の余裕が全くなくなってしまう。

 

1月末にお腹をこわしたときに学校の宿題に遅れが生じて、そのままずるずると来ているうえに、柔道も続けている。算数検定も14日にある、というスケジュールの中で、塾通いを始めて、集中できる状態にない。

 

子供らしさは、追い詰められないところに生まれる。自由な発想に、目の覚める思いをさせてくれるのも、ぼくたちよりも余裕があるからだ。

 

大人並みの忙しさに彼を放り込むのは、よくない。

 

 

ランボルギーニ・カウンタック

スーパーカーと言えば、カウンタック

 

1970年代後半のスーパーカー・ブームで熱狂した少年のひとりだったぼくは、半世紀近く経った今でもそう思っている

 

フェラーリを超す車をつくってやろうとトラクターの会社の社長フェルッチオ・ランボルギーニスーパーカーと言えば、カウンタック

 

1970年代後半のスーパーカー・ブームで熱狂した少年のひとりだったぼくは、半世紀近く経った今でもそう思う

 

フェラーリを超す車をつくってやろうとトラクターの会社の社長フェルッチオ・ランボルギーニが1963年に会社を興してから、たったの10年後にたどり着いた頂点ともいうべき車だ

 

フェラーリの流麗さに対し、ランボルギーニはダイナミックさ、力強さを前面に押し出す

 

フェラーリは車体よりも周囲を流れる空気をデザインするが、ランボルギーニはマシン自体のインパクトが強い

 

例えば、カウンタックのリアの2Dデザインは、それ自体が一点パースになっており、止まっている姿を後ろから見ているだけなのに、前方へすさまじいスピードで走る姿が重なってしまう

 

そんな車が他にあるだろうか?

 

 

 

 

音楽と祈り

音楽の政治的利用などと聞いただけで恐ろしいが、祈るような気持ちにさせてくれる音楽が使用されるならば、戦争も止まってしまうかもしれない。

 

戦場のピアニスト」という映画では、戦時の心理を音楽が溶かす瞬間を表現している。

 

ぼくは、アルボペルトのタブララサを聴くと、はるかなものに対して祈る気持ちを喚起される。

 

 

デザインの可能性

ランボルギーニカウンタックのリアデザインを見ながら、「モノにはこんなデザインがあるんだ」と自分の中に発見があった。

 

二次元で三次元を表そうとするのが、パースという絵の手法だが、その中でも一点パースは構図のなかにダイナミシティを与える。そんなパースの効果を意識した二次元平面を、三次元デザインの中に要素として足す。

 

ランボルギーニのデザインを「過剰」と形容している文章がある。その言葉がポジティブな意味で使われていることに新鮮さを覚えるが、まさにこのような部分こそ過剰というにふさわしい。

 

 

音楽の力

安富歩氏は選挙の時に、音楽を演奏する人たちと一緒に回っていた。

 

演説の盛り上がりに合わせて、映画音楽のように鳴り響いていた。

 

ちょっと照れ笑いを交えて、空気をずらしながら、勘違いしてる人にならないよう配慮していたように聴こえた。

 

かくして、選挙演説はエンターテイメントになる。

 

この人がやることは、面白い。

 

 

映画 言の葉の庭

 2013年。新海誠監督。

 

この映画を支えるとてつもなく美しい背景は、かつて毎週のように日曜日に行っていた新宿御苑であるという親近感も手伝って、この作品に引き込まれた。

 

雨宿りする東屋で出会う男女。他に誰もいない。このようなシチュエーションが生まれる場所を他に想定しようとしても容易には見つからない。

 

その二人が万葉集の中の柿本人麻呂の歌を詠み合う。

 

 

雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

 

雷が鳴り響き雨でも降ってくれないであろうか。そうすれば、あなたをこの場に引き止めることができるのに。

 

雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて 降らずとも 我は留(とま)らぬ 妹し留めば

 

たとえ、雷が鳴り響いたり雨が降らずとも あなたが引き留めるなら私はここにいる。

 

 

この映画を支えるのは、ぼくらの社会が削ぎ落すものたちだ。

 

ぼくらがその世界へ入っていける時間を持てることを、幸せに思う。

 

 

子供を守る

安富歩さんの1月20日の講演で、彼が唱える「子供を守る」とはどういうことか、を説明している。

 

日本の政策の大本はずっと「富国強兵」だったが、もはや核兵器が使われる戦争に強い兵士はいらない時代になっている。

 

まともな戦争はもう起らない。あるのは、対ゲリラ、対テロ、対サイバー攻撃の戦いだ。

 

ならば、「富国強兵」という目標を「子供を守る」に切り替えるべきだ。

 

そして、「富国強兵」という古い時代に育った自分たちの頭では考えられない、現代の数々の問題を未来の大人に解決してもらおう、と言うのだ。

 

具体的には、子供たちにぼくらの常識を押し付けないことだ、という。

 

子供が正しいと思うことをやらせる。

 

では、正しいと思うことを、子供はいかに真剣に考えることができるか?

 

そのモチベーションは、自分自身から生まれるか、友達との関係の中から生まれるか、どちらかしかない、と・・・これは塾の講師の方が言っていた。

 

親としてできることは、その機会を与えることだけだ。