漫画を描くことと、それをドラマ化することは、全く性質が違う。
漫画のつくり手は原則として一人の作家であり、ドラマのつくり手はプロデューサー、脚本家、撮影監督、俳優をはじめとして大勢が関わってくる。
大勢でつくる作品には、それぞれの人の個性や事情が全て絡んでくるし、個々の相関関係も作品に影響してくる。
だから、それぞれの作品に同じものを求めること自体ナンセンスで、それぞれが独立した作品だ、と考えるべきだ。
テレビ局は安易に漫画の作品性を引き継ぐという約束をしてはならないし、漫画家はその作品性を手放すことなくドラマ化を許してはならない。
漫画という作品が元になって、ドラマという全く別の新しい作品が生まれるのだ。漫画はドラマをつくるための大きなインスピレーションの源にすぎないことだって、ありうるだろう。
そこに同じタイトルが使用されるならば、お互いの「つくり手としての信頼関係」が前提とならねばならない。
信頼関係とは、一般性に属するものではない。つまり、契約書に書かれていることとして保証される類いのことではない。
お互いにとりかえの効かない人間同士で一対一で向き合う関係、つまり単独性に属するものだ。
そのうえで、お互いが創造を存分に愉しむことによって、質の高いプロジェクトが成立する。
テレビ局はドラマ化を自由に進められるように、原作者との間に「つくり手としての信頼関係」こそを誠心誠意を尽くして構築すべきではないか。
そうすれば、漫画家もドラマの制作者たちも、お互いの創造を存分に愉しむ結果を共有できたのではないだろうか。
同じことは漫画のドラマ化の問題に限らず、「誰かが創造した世界を他の誰かによって違う世界に実現する場合」ならば、全ての分野について言えることだ、と思っている。
もちろん、それはクライアントの構想を実空間として実現する「空間づくり」というぼくたちの仕事にもあてはまる。
クライアントは構想を創造し、ぼくらはそのための空間を創造する。そして、お互いの創造を存分に愉しめるよう全力を尽くす。
誰もが自分の持ち場で創造に専念し、それを存分に愉しめる。そんな社会をつくりたい。
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SOTOCHIKUとは、想定<外>の構<築>です。他者によって全力でつくられた結果には、必ず想定外が紛れ込み、それこそが世の中を更新していく原動力になり得るとぼくは考えています。
(「セクシー田中さん」のドラマ化問題について SOTOCHIKU通信vol3から抜粋)