gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

日が昇ればみんな起きるし、日が沈めばみんな眠る

 

時間とは、地球のすみずみで常に一定の速さで刻まれているか?

ぼくらは、時間という定規の、等間隔に刻まれた目盛りの一点に産み落とされたのか?

◇ ◇ ◇

古代の日本人はそのような時間の捉え方をしていなかったかもしれない。

夜明けのことを「夜のほどろ」と表す歌が万葉集にある。

夜のほどろ我が出でて来れば吾妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ (大伴家持)

「ほどろ」とは、解く(ほどく)、施す(ほどこす)、迸る(ほとばしる)であり、「ゆるみ、くずれ散るさま」を意味する。動かない固い暗闇が朝陽に融けて崩れ散る動的な様子を表すのが「夜のほどろ」だった。

「時」は「解き」、あるいは「融き」だという説がある。 固まって動かない永遠性が解体され、その瞬間に「時」が生まれる。

そして、解かれたものはやがて、また結ばれ(=「むすび」)、固まって動かなくなる。

時間は、生まれて、消えることを繰り返す。止まっているところに時間は存在しない。

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家の中で夜明けに目覚め、外へ出かけ、帰宅して、夜更けに眠る。

その一般の生活スタイルが、現代と古代とで著しく違うわけではないだろう。

だが、現代の生活が決められた時間の中での「生産性」を目標としているのに対し、古代の生活には別の価値観があったのではないか。

生産とは逆の「解体」によって時間が生まれ、バラバラに解(ほど)けたものが「結合」することで時間が消える。それが古代の時間であるならば、そこには固まって動かない永遠性が基盤をなしていることが分かる。

その永遠とは例えば、夜の闇であり、盤石な大地であり、同じく盤石な地位・役職であり、天賦の才能であり、人々を結びつける強い絆であり、安定した生活であり、計画通りに実現する未来もそうだと言えるかもしれない。さらには、不変の愛やその根底にある悲しみ。そのような基盤が崩れることで初めて時間が生まれるのだ。

現代は、古代人が前提とした永遠をまるでないものかのように目的として掲げ、人間にたゆまぬ生産を求め、何に対しても入念に計画し、計画実現のために一致団結を要求し続ける。そんな努力を強いられながら、ぼくらは時間のない虚無の世界へ向かっているのではないか。

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なぜこんなことになってしまうのか。

ぼくら人間がこの世界に体一つで生まれてきたとき、皆すでに永遠性を内包している。人間一人ひとりが、他の動物から見ればほとんど神のごとく圧倒的に優れた能力の持ち主であり、その意味では個人差などわずかな誤差に過ぎない。豊富な資源に満ちている美しい地球環境も含めて、本来ぼくらは何かを求める必要がないくらいに与えられて生まれてくる。そのような認識を前提とすれば、古代の生活のように、時間とは「永遠を基盤として、それが解かれるときに生まれ、やがて結ばれたときに消えるもの」として捉えることができるだろう。

だが現代社会は、体一つの人間を何も持たない数字のゼロと見なす。そのために永遠を常に渇望して生産に駆り立てられ、数字を増やそうとする。数字に上限はなく、いくら大きな数字を手に入れようと永遠に届くことはない。だから、人々はいつも不安を抱えている。もっと生産しなければ、と均質な時間の目盛りの上でひたすら機械のように働き続ける。

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葛尾村で村再建の道を丁寧に歩んでいる人々は、たぶんそのような時間の捉え方をしていない。

村民の方々のインタビュー記事から伝わってくるものは、永遠性を内包して生まれてきた人間としてのひとりひとりの自信であり、自分ができることを村のみんなが生きる力に変えようという意識である。

大人も子供も、揺らがない、根太い人間たちがそこにいる。

葛尾村の篠木村長は、村のことを「日が昇ればみんな起きるし、日が沈めばみんな眠る、そんな普通の村」と紹介されている。この言葉は、葛尾村が「夜が融けて時間が生まれ、夜が結び時間が消える村であること」を表しているように聴こえる。

そんな「普通の村」に、ぼくらは未来の光を見る。