gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

クロスビーホール

これは、1996年1月に提出したニューヨーク州立大学バッファロー校の建築学修士課程の修士論文に「あとがき」として載せた文章だ。

 

これを書いた後に帰国して、2年後に会社を立ち上げて、四半世紀が過ぎて、またここへ戻ってきた。その間、ぼくの細胞は何度も入れ替わり、別人が書いたのかもしれない、という感覚を持っている。

 

【クロスビーホール】

 

丹精込めてつくられた空間はありがたいものである
そこにつくり手の情熱を感じとった人は、
その空間にふさわしく振る舞う使い手になろうと心掛けるだろう・・・

では、丹精込めてつくられてないかもしれない空間は、
どんなふうに使ってもよいというのか?
そこでは、どんな振る舞いをしても許されるというのか?
・・・ならば、その方がよっぽどおもしろいではないか

このような逆説は、建築や美術を学ぶ学生にとっては
特に現実味があるはずである
私が建築を学んだニューヨーク州立大学建築学科の校舎クロスビーホールは
つくり手の情熱などからはすっかり解放された古い空間であり、
だからこそ、ペンキを塗ったり、落書きをしたり、壁に穴を開けたり、・・・
学生は好きなようにこの校舎を自分の制作に利用することができた

創造に専念する者にとっては、
その創造の場となる空間のつくり手の情熱などは
ときには邪魔なものでさえあるのだ
かくいう私もこのような理由から
クロスビーホールを愛してやまない者の一人である

長い時を経て、いろんなことが忘れ去られてしまった空間は
私たちみんなへ向けて、静かに微笑んでいる
(あなたもそんなふうに感じたことはないだろうか?)

そんな空間のくれる自由の空気を体験するとき
その空間もまた始まりは私たちと同じ人間がつくったものに過ぎないということに
なんだか遠い希望の光が見えてこないだろうか

時間は、すべてのものを死の方向へと導くと同時に
恣意を必然へと変える力を有している

すべてが無へと融けていくかのようにあるときこそ
私たちはそこに揺るぎない強さを目の当たりにし、
本能的に、生へと向かう創造の情熱をかきたてられる

このような私が真新しい空間をつくる仕事をしているわけだから
ただ丹精込めて空間をつくるわけにはいかない

私は、空間のつくり手であるとともに
空間の壊し手である「時間」になろうとする
太陽であり、風であり、雨であろうとする

それは、丹精込めてつくられた空間という
従来の空間の良し悪しの基準を無効にするだろう

そのような空間を、丹精込めてつくっていきたいと思う