gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

実務能力

柄谷行人は、「死者の眼」において、森敦について批判的に書いている。

 

柄谷行人と森敦を読むことによって、考えることを継続してきたぼくとしては、これは重要だった。

 

この中で森敦は「孤高のように見えながら世俗的・社交的であり、超俗的に見えながら実務的能力がある」と評される。

 

死者の眼を持つ、ということは、死をも内部思考に取り入れることであり、徹底して閉じた予定調和の世界に生きていることを表している、と。

 

世俗的・社交的であり、実務能力がある。この能力はつまり、一般が求めることに対して敏感で、それに合わせて自分の振る舞いを決められる、ということだろう。

 

それをやすやすとこなしながら、深い思考に入り込むことができる。たぶん、周囲にはそんなふうに映ったということだろう。

 

だが、世俗的・社交的であり、実務能力がある、とは、自分を「演じる」部分ではないか。演じることができる人間と、できない人間がいる。それだけのことではないのか。

 

森敦にとって、そちら側にアイデンティティがないことは明らかで、彼には「演じる」余裕があることも明らかだろう。また、彼が選んだ人生が、世俗的・社交的であり、実務能力を発揮することを必要とした、ということもあるだろう。

 

生きる姿勢は、必要によって決まってくるだろう。