かつて柄谷行人が『「小さきもの」の思想』と題して、柳田國男の文章をまとめた本をつくった。それを読んだときに感じた「小さきもの」に対する共感は、今年ますます強くなったように思う。
ぼくが今年、最後にたどりついたのは、全てにおいて、少しずつつくり変えることが過去と未来を分断せず、大きな争いごとの火種をつくることもない、平和的で創造的な方法だというイメージだ。言い換えれば、小さき創造に一生を賭けても惜しくない、という信念だ。
「大きなもの」への共感、とも言える思想がかつて在籍したゼネコンにはあった。後輩がそのような意見を言うのを聞いたとき、ぼくはたぶん一生話が通じない人がいるということを思い知らされたように感じた。
実際、どうなのだろう?統一教会から票をもらいながら選挙を勝ち続けたことが明確になった自民党を未だに疑いなく支持する人々は「大きなもの」への共感もしくは追従によって、これからも平穏無事に生きていけると思っているのだとしても、それは未来永劫変わらないだろうか?
いや、きっと変わる。変わるべき時が来た。もはや議員の多数が自分の利権を守ることしか考えない政党に落ちぶれた自民党の下、ただ従順に生きてきた多数の国民が路頭に迷う時代に突入していく。
そうなったら、「大きなもの」への共感者は、その考えを変えざるを得ないだろう。
では、我が国の急没落の中で、どのようにこれからの時代をみんなでつくっていくか?このアイディアを持っている人たちや持とうと努力している人たちは確実に存在する。
幸い、人々の多くはまだ健康で健全な日常を生きているように見える。来年は、路頭に迷うかもしれない人々が希望を抱いて新しい人生へ向かう年になることを祈っている。
もちろん、ぼくも含めて。