1986年。スウェーデン。アンドレイ・タルコフスキー監督。
秩序と混沌について、何度も語られる。
毎日決まった時間に枯れかかった木に水をやり続けて、3年後にはたくさんの花を咲かせたという話。
病気の母のために、がんばって、がんばって、何週間もかけて美しく整えた庭が、元の自然のままの庭の美しさに遠く及ばないことに、吐き気をもよおしたというアレクサンドルの独白。
未開人の社会の方が、現代の社会よりも、愛に満ちていた、という視点。
核戦争が始まったことを告げるテレビの、「パニックにならず、秩序を保つように」という、国民への呼びかけ。
人にできることは、いつも秩序を与えることだけだ。よかれと思ってそうしているのに、行き詰まり、争いが生じ、互いに破壊しあう。
多くの人が一緒に生きることでこのことが繰り返されるのは、必然なのか。
それを止めることができるのは、自らを犠牲にする、という行為だけなのだろうか。
この映画では、アレクサンドルの払う大きな犠牲によって、周囲の人々すべてが救われる。
では、それぞれの人々が、少しずつ犠牲を払うならば、全世界が平和に生き続けていけるのだろうか。
<秩序を与える=する>と<自然(他人)に任せる=なる>とのバランスは、ぼくらが仕事の中で最も重要視しているところだ。
ぼくらは、バランスをとることを<犠牲=サクリファイス>だとは思っていない。
そのバランスのとれた一瞬を見つけることは、今よりももっと生きることを愉しむことだと信じている。
だが、皆がそのバランスを探ったとしても、間違うことはあるだろう。
そのときに、大きな犠牲を払う覚悟は持っているといいたい。