ぼくが小学生の頃は、まだ鍵のかかっていない家があった。
2002年につくられた「ボーリングフォーコロンバイン」という高校生の銃乱射事件を題材としたドキュメンタリー映画では、その頃のカナダも鍵のかかっていない町があったという。
人のテリトリーへ入っていくことが難しくなった分、極端な暴力性が時折顔を見せるようになり、どうやらその頻度は高まっている。
猜疑心。こんなものを持たなくては生きていけなくなった社会は、人間の多くのことをパスワードによって守る、という方向へ驀進し、ぼくらはパスワードを管理することに神経をすり減らしている。
小学生のころ。40年以上前の話だが、近所のこわいおじさんは、ぼくらを守ってくれる存在でもあった。今では、不審者扱いされて通報されるのだろう。
今のコミュニケーションでは、会話によって新しいものは生まれにくい。
新しいものが生まれやすい条件をどのように実現させていけるか?
コワーキングを推進する佐谷さんや空間をつくるぼくらが直面している課題である。