観念とはユークリッド幾何学の「広がりのない点」のように、経験的に表象することができないけれども、心の中で思い浮かべることができるものだ、という。
偶像崇拝の禁止とは、つまり、神を表象するイメージを媒介として持つことを禁止し、観念として捉えることで、直接的に無限と等しいものとする、ということだ、と理解している。
無限は、その外部が存在しないがゆえに閉じている、という。
イメージしようとすると、必ずその外部が現れてしまう。
ぼくは小学生の頃、寝床に入ってから、外部のない宇宙をイメージして、長時間眠れなかったことがある。
ぼくらが生きる基盤が、なにものからも支えられない頼りないものに急に思えてきて、怖いと感じたことを憶えている。
宇宙を説明できる人は、今もほんの少数だろう。正直にいえば、いるのかどうかも知らない。
ただ、「無限が閉じている」という観念を自分のものにすることだけでも、ぼくらは少し変わることができるのかもしれない。
<単独性−普遍性>の回路の存在を常に自分の傍らに感じつつ生きることで。換言すれば、「この私」が考えつつ存在する、と感じながら生きることで。