今朝、妻が早朝から出かけて、陽向の世話を引き受けることになった。朝の身支度を陽向が起きるよりも先に終わらせようと急いだが、陽向が計算外に早く目覚めてしまった。
最初は機嫌よくしていたが、そのうちに退屈して泣き始めた。なだめるにもまだ自分の支度が終わっていない。仕方なく泣くままにした。
いつもは1分も経たないうちに、抱き起こす。抱き起こすと、決まってすぐに機嫌がよくなる。
今朝は、泣き始めてから15分後にようやく支度が整い、陽向を抱き起こした。機嫌を直すのには相応の時間がかかるだろう、と予想された。しかし、彼は15分も泣き続けていたのに、その瞬間に泣きやんで、それまでのことがなかったかのように、機嫌よくなった。
「それまでのことがなかったかのように」というところが気になった。それまでの15分間は、彼の中で本当になくなったのだろうか。
なくなってしまったとしたら、それはフェアではない。
・・・・・・・・・・・
世の中、「終わりよければすべてよし」で済まされることがたくさんある。私たちの仕事の世界でも、そのようなことは枚挙にいとまがない。(もちろん、その恩恵を被っていることもたくさんある)
そうでなければ、世の中がうまく回っていかないことはよく分かっている。
そうだとしても、そのことにはアンフェアな部分があると言いたい。
つくるプロセスの中の、気持ちを込めた無数の行為が、クライアントから正当に評価を受けることをつくる人間として望んでいる。だが、「終わりよければすべてよし」によって、その無数の行為が、風に吹き飛ばされてしまう感覚が哀しい。
世の中で、究極的によいものが追求されていかない理由は、ここにあると思う。OKレベルのものばかりが世の中に氾濫している。
それまでのことがなくなってしまうなんてことは、断じてない。私は、フェアであること、フェアな視線を持つことに、とことんこだわりたい。
・・・・・・・・・・・
というわけで、陽向よ。怒るときは怒れ・・・ということだっけ?