メールマガジンJMMの中の冷泉彰彦さんの今週のコラムがおもしろかった。
アメリカにいる冷泉さんが、経済評論家の勝間和代さんと、巨大掲示板「2ちゃんねる」の元管理人のにしむらひろゆきさんの対談に関して書いているものである。
「勝間さんは個人の幸福度を上げるには、個人の経済的自立と精神的な独立が重要という価値観を前提として整然な理論を展開しておられたのに対して、ひろゆきさんは前提を疑ったり崩すことによる精神的な自由度を重んじていたようでした。確かにこれでは話は噛み合わないのも当然でしょう。」
勝間さんがあるかたちを提示すれば、ひろゆきさんはそれをこわすという会話の繰り返しだった。それだと、勝間さんが何を言ったとしても、必ず否定される、ということになる。勝間さんは、お手上げと感じながらも、真摯に建設的な会話を成立させようという痛々しいくらいの努力を続ける。その結果、・・・
「最終的に勝間さんはひろゆきさんのアプローチに対して「自分が絶対正しいという感じで上から言われている感じ」という感想を漏らしていたのです。」
冷泉さんはこのような結末に至る理由を「日本語の特質」だと言っている。
「日本語というのは、人間関係の調和が前提となってできている言語です。まず関係性を規定して上下の敬語や遠近の丁寧表現を使ってコミュニケーションのフレームを作り、更に前提となる共有情報は主語でさえどんどん省略して会話全体を小さな謎掛けと謎解きで構成することで、ネバネバした親近感へ巻き込んで行くのです。更に、意見の相違や利害の相反が出てくると、婉曲表現や敬意の表現などを駆使して関係性を傷つけないようダイナミックなバランスを取ろうとする談話形式も定着しています。」
この人間関係の調和を前提とする言語を用いて、初対面の対談をするときに、ここまで「相手への明確な反論」をやってしまうと、「本人が思う以上の暴力的な権力行使として相手には受け取られてしまう」。
日本では友人はつくれても同志はつくりづらい、と感じることがある。それは、最初に提示された価値に対して、微細な違和感を感じながらも、そのような意見を述べることが難しいからであろう。「和を以って尊しとなす」この言語は、自分の正直な意見を通すには、あまりにも軋轢を生じさせやすいのである。
アメリカの大学で建築を学んだ私は、そのような制約を全く感じることなく、真っ直ぐに自分にとっての価値を発展させることができた。教授とも、親友とも、意見が対立してもそれはそれで、人間関係に関わる心配は全くなかった。
おそらく日本ではそうはいかないのであろう。例えば、建築という「前提」を議論しなければならない学問を進めていくうえで、この問題は大きく立ちはだかっているだろう。(私は、日本の大学で土木工学を学んだが、「前提」とは関係が薄いエンジニアリングを学ぶにあたっては日本語の問題はない。むしろ、だからこそ、日本のエンジニアは優秀なのではないか。)
二人の対談の中で「ネットにおける匿名性の是非」という問題が取り上げられていたことを、冷泉さんは上記の「日本語の特質」と関連付けている。日本のネット上に匿名が使われることが多いのは、そうでなければ、好きなことを書けない言語だからだ、と書いてある。
奇しくも、弊社のスタッフ003から009までが共同で書いているブログは、架空のスタッフ008スミ田テツ男を立てることによって初めて「自由に書く」ということが可能になっている。
その理由が私にはわかりづらかったのだが、冷泉さんの今回のコラムによってようやく得心したのである。