映画を観る人がいなくなり、映画館ニューシネマパラダイスは閉館する。
有名な映画監督になったトトは、30年ぶりにシシリア島へ帰郷する。子供の頃、この映画館の映写技師だった。帰郷の理由は、先代の映写技師で、父親のように慕っていたアルフレードが亡くなったからだ。
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映画とは、なんだったのだろう。私は1987年、ラテンの国、南米エクアドルのキトで映画を観たときに、観客の熱狂ぶりに圧倒されたことがある。映画の中で、善人の妻が悪人に襲われそうになると、観客が一斉に口笛を吹いて夫に状況を伝えようとした。映画館の中には、観客の一体感があった。
ニューシネマパラダイスは、まさにそんな映画館だった。娯楽は、すべてここにあったのだろう。
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そのような場所が失われてしまった。アルフレードやトトの最愛の場所は、失われてしまった。
それは、トトが町を出る前に失った恋人エレナ、アルフレードが映画館の火事で失った視力とシンクロしている。
最愛のものを失うことによって、より高次の視点を獲得する。この映画は、教育映画のように哲学を押し付けるようでいて、一方では、奔放で柔軟である。
それは、アルフレードが遺したフィルムをトトがひとりで観るラストシーンで一気に溢れ出る。「溢れ出る」という表現がこれほどぴったりと来るシーンが他にあるだろうか。アルフレードは、戦後間もない頃に検閲で切られたキスシーンの数々をつないでトトに遺したのである。
抑えていた「最愛」への想いが、とめどなく溢れ出る。
これが映画の力なのか。