地球から眺める星の配置をわざとらしく感じることはないだろう。
人間が何かを星のように配置しようとする場合は、わざとらしさを感じ取る感性との闘いになってくる。
(写真は現在施工中の白い壁に、アルファベットを星のように散らす作業。文字が薄いので、とても見えづらくてスミマセン)
わざとらしさを感じさせない、気持のよい配置とはどのようなものか?その答えを探す。
「美は特に美を意識して成された所からは生まれてこない」(坂口安吾「日本文化私観」)
私はこの言葉に共感している。もの書きとして発せられた言葉だが、つくること全てにあてはまる。
わざとらしくない配置をわざとやる行為を、美を意識せずしてできるだろうか?
一文字、一文字、次はここだよ、今度はこっちだよ、という内からの声に従ってアルファベットを配置していく行為。頭の中は、空っぽの状態に近い。
絵描きもそのように筆を進められるときは、心地よいに違いない。
だが、そのとき、美を意識せずにやっていると言えるだろうか。
坂口安吾が言わんとしているのは、必要に追いつめられている人の行為に美しさが在る、ということだ。
私はつくる仕事の中で、どのくらいこの「必要」に迫ることができるだろうか。