さした番傘の骨を見上げながら、軸を中心としてゆっくりと回してみる。
油紙の拡散光の手前で、黒く浮かび上がった傘の骨は、速度に合わせてだんだん消えていく。
さした番傘の骨を見上げながら、軸を中心としてゆっくりと回してみる。
油紙の拡散光の手前で、黒く浮かび上がった傘の骨は、速度に合わせてだんだん消えていく。
ぼくらの家族に春の到来を告げるのは、青山小学校の帰り道にある墓地の歩道の隅っこに佇んでいるヒキガエルの存在だ。
2月20日くらいになると、ぼくはワクワクしながら学校へ陽向を迎えに行く。
もちろん陽向も愉しみにそれを待っている。
「いるかな?」「いないね」「いや、いると思う」という会話をしながら、道の隅っこを探すと、いたいた!今年もいた!
二人で大声をあげて、陽向はスマホで一匹一匹写真を撮りながら、ぼくは顔を近づけて一匹一匹の違いを確認しながら、ゆっくりと進んでいく。
まるで小犬の鳴き声を遠くに聴くようなヒキガエルの鳴き声を聴きながら。
メスの上にオスが乗っかっているのもいる。
彼らが、時折通る自転車に轢かれないように、道の真ん中にいるものは、隅っこへ追い立てて。
2月といえば、これだね。
どんなありふれた場所に見えようと
そこに歌があれば人は生きていける
何もないところに
その場所から生まれ出る歌を探して
その歌を人の心に届くものにすること
それがぼくらの仕事だ
陽向と夕方の公園でキャッチボール
辺りはだんだん暗くなって
ボールとの距離感を奪っていく
ゆるかった球がだんだん難しい球になって
続行不可能になって終了
太陽とともに過ごした日曜日
タイトルは、ぼくのスマホのリマインダーに1月1日に誰かが入れた言葉
この言葉が今年になって戦う自分を元気づけている
陽向が入れたとしか考えられないが、彼に聞いても「知らない」という
天から降ってきたと思うことにしよう
最近、熱帯魚の水槽をぼんやり眺めながら思うのは、「数の問題」だ。
何度か、書いているけれど、昨夏に絶滅寸前だった我が家の水槽は、その後のグッピーとプラティの繰り返される産卵のために、今は60匹以上がひしめき合っている。
昨夏は残った数匹の魚たちに名前をつけられるくらい親しく接していたにもかかわらず、今の状態では一匹一匹を判別できるわけもない。
一匹一匹のために、ぼくらが尽くせるためには、数の限界がある。
このことは、実は、根源的な問題ではないだろうか?
ぼくらがつくる空間が、詩でありうるとすれば、不特定多数を対象とする心では対応できない。
とりかえのきかない世界は、過多という状態になったときに消え失せる。
陽向の髪を切るのは、愉しみのひとつになっている。
今日は、わずか5分で切ってしまった。測ったことはないが、きっと新記録だ。
一人の人間の印象を、こんなにも大きく変えてしまうのだから、美容師になりたい気持ちが分かる気がする。
ぼくが柔道部なるものに所属したのは、熊本高校にいた頃だけだ
今、諸先輩方がその歴史の本をつくっておられて、ぼくも寄稿することになった
小2から続けた柔道は、ぼくの原点のひとつだ
改めて、いろいろと思い出してみたい
陽向のクラスメイトへの誕生日プレゼントとして、DEXITというゲームを選んだ。
うちも3人家族だが、その家も3人家族。
DEXITは3人~6人でプレイするから、それぞれの家庭でも、一緒にでもできる。
いつか、一緒にできることが愉しみだ。
働く人の美しい動きと
それを可能にする空間
詩を喚起するために
そこになにをなすべきか