1999年。中国。チャン・イーモウ監督。チャン・ツィー。
中国映画に繊細な美しさを認めて少し驚いているのは、ぼくが中国に対し、偏見を抱いていた証拠だ。
新型コロナの発祥の地でありながら、1年半経った現在、最もコロナを抑え込んだ大国として、今後の世界をアメリカに代わって牽引する可能性が高まっている。
徹底的な感染防止の動きを実にシステマティックにやってのけている印象は、世界からの視点では、かつては日本の印象そのものだっただろうに。もう、はっきりと時代は変わったと言える。
きっと、ぼくら日本人は隣国を正面から理解しようとはしてこなかったのだろう。この映画を観ると、そんな思いになる。
父が亡くなり、母が残される。これは、私にも10年ほど前に起こったことだ。
映画の中で、都会から駆け付けた息子は、父の遺体を町から担いで帰るという村のしきたり通りに行いたい、という母を、他の村人と同様、もっと簡単な手段で済まそうと説得するが、結局は、母の願い通りにしようとする。
父と母がどれだけ愛し合っていたかを、息子はそれまで知らなかったのだ。
ぼくもこの息子と同じようにふるまっていなかっただろうか?
父の死を、簡単な手段で済まそうとしていなかっただろうか?
母の気持ちを一番に考えて行動することができただろうか?
実際に町から担いで帰ることを実行してみると、みんな忙しいからだれも父を担ぐ人がいない、という周囲の心配は杞憂に終わる。父は村に一つしかない学校の先生で、教え子たちが次々に担ぎたいと集まってきたのだ。大勢での雪の中の行進。
人とのつながり、建て替わる予定の古い校舎とのつながり、村の美しい景色とのつながり、・・・。
決してそれらは、お金に取って代わられてはいない。そのように見えても、本当はつながりは失われていない。