みなさまにご報告しなければならないことがあります。
杉山榮佑さんは、7月10日(火)朝10時ごろに、ご自宅で永眠されました。
7月3日の演奏会から、わずか1週間で旅立たれるとは、信じられませんでした。
私は、33年前にケニア・ナイロビ行きの飛行機で一緒になって以来、家族のようにお付き合いさせていただいてきました、田中稔郎と申します。そのとき、杉山さんは39歳、私は20歳でした。以来、私は彼をエースケさんと呼んでいます。
ご家族からエースケさんのFacebookでの管理を任されましたので、投稿させていただいております。
すでに13日にご家族だけで告別式は終えられており、ご家族の意向で、香典はご辞退させていただくと伺っています。
演奏会の後、ご自宅へ伺った際には、痛み止めの薬が体に合わないようで、痛みは引くけれど、吐き気が止まらない、と言ってらっしゃいました。
眠りに近づくほど、吐き気をもよおすとのことで、なかなか眠れない日が続いていたようです。
それでは、急に衰弱が進んでしまう、と、知っている東洋医学の先生をご紹介してアポイントを取り、5日にエースケさんに電話をしたところ、「車で1時間かかるところにはとても行けないから、無理」と言われました。でも、「このヤマを越えたら、行けるようになると思うから」と前向きな言葉を添えるのをエースケさんは忘れませんでした。
この電話が、エースケさんと私の最後の会話になりましたが、私は改めて近いうちにエースケさんを車に乗せて行くことになるだろうと思っていました。エースケさんの口調にはまだ力が感じられたので。
しかし、その後は、日に日に容態が悪化していったようです。
9日夜9時ごろ、エースケさんの娘の圭ちゃんから「パパの容態が昨日から急変しました。今は昏睡状態です。声をかければ反応がある感じです。」というメールをもらいました。
そして10日お昼前に、エースケさんが亡くなった、という電話を圭ちゃんからもらいました。
看取られたお姉さんのお話によると、ゼーゼーという苦しい呼吸が、後ろを向いているときに聞こえなくなったと思って、振り返ったら亡くなっていた、ということでした。
夕方に、亡骸にお会いしたときは、まるで笑っているかのような穏やかな表情をされていました。
(つづく)