gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

常民

柳田国男の「常民」という言葉について、柄谷行人が1986年に次のように書いている。


柳田の「綜合性」は、むしろ、分解される前のそれであり、そして、今後に綜合されるべくもない何かなのである。たとえば、柳田は「怪異なもの」を排除したのではない。そもそも彼の仕事はそこからはじまっているのだから。また、彼が「常民」と呼ぶものは、本来、農民だけではなく漂泊民や芸能民や被差別民をふくむものである。いうまでもなく、柳田の仕事のなかで、重心の移動がある。しかし、それは明瞭に分割されるようなものではない。それに対し、折口(信夫)や南方(熊楠)は、ある意味で、今日の民俗学や人類学のなかに消化しうるような構造論的形態をしていた。要するに、彼らは扱いやすいのである。(「柳田国男論」p.20)


マージナルな存在にスポットを当てるとき、人は外部にあったものに気づき昂揚するが、しばらくたつとそれは自明のものとなって内部に取り込まれてしまう。そうやって、人々は次々に外部的な何かを発見しては、その外部性を失っていくことを延々と繰り返していく。

それが、ずっと外部にあり続けること。そのために重要なものが、言葉だ。


柳田はけっして自分の仕事を定義しなかった。(「柳田国男論」p.21)


その「柳田学」としか呼びようのない仕事は、それが故に、消化されることがない。

どの時代が来たとしても、読む価値を失わない。



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