柄谷行人が唯一の友人と書いた中上健次について、「計算しない人」とどこかに書いていたことが、頭に残っていた。
計算をしない、とはどういうことか。計画を立てない、とか、不安を持たない、とか、そういうことじゃないのは分かっていたが、そのような人に会ってみないことには実感することができない言葉だった。
今日、お店を始めたい、と言われる新しいクライアントにお会いして、「計算しない人」とはこういう人だ、と直感した。
「雑念のない人」という言葉では言い表せない。目の前の、向き合っていることだけに、「心」が集中している人だった。
頭が集中しているのではない。心が集中するのだ。
だから、その人は聖域にいる。だれも、口出しはできない。
ある意味で、その人は遠いところにいる。一生の間、ずっとそうだろう、と感じさせるところがある。
きっと、たくさんの人がその人のことを好きだろうし、その人も、家族をはじめ、たくさんの人のことを愛しているだろう。
けれど、その人は「ひとり」だ。
それは、とても理想的な存在の仕方に思えた。
その人は若い頃、熊野の修験者だったことがある、と仰った。
それが、中上健次の話を思い出させただけだが、熊野信仰とこのような心で生きることとは関連があるのだろうか、という関心が生まれた。