gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

広がりのある風景 3

そこで、ある目的を設定する。見たままに描くことを突き詰めよう、と。それは、必ずしも写真のように描こうとすることではない。撮られた写真からは実際に見たものとはずいぶん違った印象を受けることが多い。たどり着きたいのは、今、目の前に在るこの風景を、紙の上に移すことである。

我々の眼は樹とか野原とかに対して、生物に対するほど敏感ではないために、画家は専らそれらを描くのによって比較的勝手な真似ができるようになり、その結果として絵画においてそういう妄りな独断をすることが当り前なことになった。例えば画家が、一本の木の枝を描くのと同じ乱暴さでもって人間の手や足を描いたならば、我々は驚くのに違いないのである。それは我々の眼に、植物界や鉱物界に属する事物の実際の形が容易く見分けられないからである。その意味で、風景描写には多くの便宜が与えられている。それで、誰でもが画をかくようになった。ポール・ヴァレリー

この西洋人の絵に対する「正確さ」の要求は、私をたじろがせる。私も「誰でもが画をかくようになった」一人であることを認めざるを得ない。もし、風景画の中で、植物の枝一本一本を肖像画における人間の顔のような正確さを持って描こうとする人間がいたら、逆に頭がおかしいのではないか、と思う。しかし同時に、彼のような厳しい眼をもって世界を写しとる覚悟が自分にあったら、私はもっと価値の高い空間を実現できるのではないか、とも思う。

彼が賞賛するダヴィンチには、そのような情熱があったのだろうか。

今、目の前に在る風景を、紙の上に移すことは、私にとって、彼が言う意味で正確に描くことを意味しない。私自身が感受できる、つまり心を動かす、ぎりぎりまで写しとろうとすることである。

描こうとする風景を目の前にして、さてどのようにして見たままの風景を写しとろうかと考える。

見たままを描こうと少し手を動かしてみるが、うまくいかない。

そこで透視図法を利用してみよう、と考える。

透視図法を利用するには、実物を見ることから一旦離れて、紙に向かって構図をつくるのである。

すると、見たままの風景に近い構図ができてくる。その後、私は私にとって重要なものを実際を見ながら描き込んでいく。そのようなプロセスの中で、私にとってリアルな風景が完成されていく。

見たままに描こうとするために、実物を見ることから一旦離れる。私にとって、これが風景を描くことの不思議である。

(つづく)

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