海野さんは考える人だ。
京都の吉田山にあるバー「白樺」の客の多くは考える人だった。酔客同志の会話だから、それぞれの考える内容は実践的でないものが多かった。だからこそ私は「白樺」が好きだった。海野さんも私もその「白樺」の客だったという前歴がある。だが、通った時期はずれている。海野さんは私の「考える人」としての大先輩だ。
だから、「白樺」の共通の知り合いから、海野さんをご紹介いただいたとき、そのとき考えていることをどんどんメールで送った。海野さんはその度に丁寧なお返事をくださった。10年以上も前のことだ。懐かしい。
今回もたくさんやりとりができる。「考える人」同志のとりとめのない話をしたい、という気持ちがあった。
「考える」ことと「つくる」ことは無関係ではないにしろ、両者のずれは大きい。考えるとおりにつくるなんてできはしない。にもかかわらずいつも、海野さんも私も「考える」ことによって「つくる」ものを発展させようとしているのではないだろうか。両者のずれにあるものが、感性と外部性ではないだろうか。
海野さんの作品の画像はすでに見せていただいた。それらの素晴らしさに重圧をかけられつつ、今度は私の番です、とばかりに、「考える」と感性と外部性を合わせた「つくる」行為を愉しませていただこう。