2週間ぶりのジョギングはきつかった。新宿御苑を2周と決めて走り出したものの1周目の半分で止めたくなってきた。こういうときに、人は何を考えて、走り続けるモーチベーションを得るのだろう?
例えば、「今、自分が走ることをやめたら、世界が滅亡してしまう」などと、途方もない妄想を思い浮かべる。これが、今日、私が2周を完走するにいたった方法だ。
自分にとってジョギングが楽しいのは、一つには、追い込まれた自分が、どうやって負けないで最初に決めた距離を走りきるか、という課題に挑むことが楽しいからである。
だが、問題がある。「今、自分が走ることをやめたら、世界が滅亡してしまう」と思いながら走ったら、のんびりと歩いている団体さんが道を妨げるとき、その瞬間、私の任務を邪魔する人に思えてしまうことである。
スポーツなどで自分の体力の限界に自分を追い込むとき、上記のような妄想は有効である。勝負事であれば、双方の力が均衡していれば、この妄想の力が強い方が勝つだろう。
しかし、その状態の人間が、通常の社会的行動をしている人間たちと交差するとき、危険が生じる。
実はスポーツに限らず、個人的妄想を自分の活動のモーチベーションとしている人は少なくないのではないだろうか。そういう人たちはある意味でとてつもなく強いかもしれないが、社会的なルールからははみ出てしまうわけだから、フェアな存在ではない。
悪い人ではないのだが、どうもフェアな関係が成立しづらい、ということが起こる理由は、こんなところにあるような気がする。