gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 太陽

第二次世界大戦の終末期の昭和天皇をロシアの監督が描いた作品である。

「現人神」が「人間」であることを宣言する。

日本国民はみな頭の中では、天皇もまた人間であることを知っていただろう。だが、たてまえをたてまえと言うことも、そして、思うことも許されないこと。(子供ですら、それを叩き込まれる。)それが戦争の真実だと思う。正しい戦争などどこにあるか。

現在の天皇も「手の届かない人」であることに変わりはない。階層社会の頂点にある人を準備することは、国威を示すために不可欠と考えられている。日本という国が存続する限りにおいて、天皇は実体のないかたちとしてこれからも存在し続けるだろう。

このことは、天皇の側から見ても、不幸である。だれも天皇、その人を見ない。人と人のコミュニケーションはいつもどこかちぐはぐである。複数の映画評を読んだが、このちぐはぐさを表現するために、左右対称に演技をさせたものを、鏡に映して元に戻す、という撮影方法をとったらしい、と書いてあるものがあった。もし、これが本当なら、すごいアイディアである。そう、皇居の中の登場人物たちはまさに、「利き腕とは反対の腕を使って生きるような人生」を生きているのである。

しかし、金持ちが金持ちであることを面倒くさいと思いながら金を捨てられないように、昭和天皇ももしその地位を捨てる自由があったとしても、それを捨てなかったであろう。その意味で、彼の苦悩は彼が進んで引き受けたものでもある、と思う。いずれにせよ、誰かが引き受けなければならなかった苦悩である、と。

彼は時代を引き受けるタイプの人間であり、時代をつくろうとする人間ではなかった。もし、後者であれば、大戦はどうなっていただろう。天皇天皇たる所以を失ってしまうだけだろうか。

私には未だに、地位の高い人を前にするとそれだけで背筋が伸びてしまう貧しさが抜けきれない。頭で対等と思うことと、実際の行動とはなかなか一致しない。肩書きにオーラを重ね合わせるのはこちらの方である。相手に責任はない。この貧しさが悲惨な戦争を生んだと思う。だから、今の私にはまだ未来の戦争に加担しないと言い切れる根拠を持たない。そして、この貧しさから抜け出す唯一の方法は、自分に対して根拠に基づいた誇りを得ることだと思う。