タイトルの通り、さびしい映画である。
マイケル・ジャクソンの格好でずっと生き続けている主人公が、マリリン・モンローの格好で生きている人と出会い、人まねで生きている人たちの共同生活の場へ誘われる。
こう書いただけで、滑稽さとさびしさがじんわりと広がってくる。
偽者として生きることでこの世をやり過ごそうとしている人たちは、「史上最大のショー」と銘打った芝居で、世の中とつながろうとする。しかし、だれも観に来ない。
他人として生きることと、自分として生きることの境界線を不安定な足取りで歩く人たちはさびしいが、では、自分はどうだろう?
彼らが、有名人の格好をして生きる、という明確なスタイルを選択しているために際立っているだけで、実はだれもが人まねで生きているのではないか?
「学ぶ」という言葉は「まねぶ」から来たそうだ。誰もがまねることによって、学習し、成長していく。向上心とは、誰々のように生きたい、という人まねへの意志の裏返しではないのか?自分は、どこにあるのか?
それは、主人公のマイケル・ジャクソンと似ていない部分にあるだろう。完璧にまねようとしても、本物になりきれない部分に。
自分の意志とは裏腹に表出するもの。それは最初がっかりさせるものとして現れるだろう。しかし、それが誰もが求めている「自分」なのだ。