gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

顔のない人々

「てめえら人間じゃねえ。たたっ切ってやる。」という決め文句とともに、極悪人の手下どもをバッサバッサと切り倒し、一呼吸空いた後、最後に極悪人を切り倒してスカッと終わる。子供のころ、そんな時代劇をよく観ていた。

スカッとしつつも、子供心にどこかで感じていたのは、極悪人の手下はそんなに悪いのか?という疑問である。

極悪人はそこそこ有名な役者さんが演じているが、手下たちは全員印象が薄い。セリフもないままに一瞬で切られる。そんな人たちが現実にいたとすれば、なんと悲しい存在だろう。見終わった後、彼らの顔を記憶していることはまずない。

話は変わって、旧約聖書の『ヨブ記』。

信仰心が篤く、清く正しく生きるヨブ。神はサタンにそそのかされ、彼の信仰心を試すことにする。息子や娘たち、家畜、彼の身の回りのすべてが次々と失われ、彼の全身は悪性の腫物で打たれる。それでも、最後まで信仰心を曲げなかったヨブに対し、神は、失った数よりも多い家畜と、失った数に等しい息子や娘たちを授ける、という話である。

この話の中の、失われた息子や娘たちはなんだか上述の極悪人の手下たちに似ているところがある。

死んだ息子や娘たちと、再び得た息子や娘たちは数は一緒だが、別の人間なのである。つまり、死んだ息子や娘たちはかけがえのない存在として描かれていない。かれらもまた顔のない人々なのである。

では、顔のない人々をつくるのは誰だろう。ヨブ記においては神であり、上述の時代劇においてはそのヒーローである。仮面ライダーはショッカーという顔のない人々をつくる。一発殴ると消えていく。

切る前に、殴る前に、「ひょっとしたらこの人はええ人かもしれん」と迷うタイミングをヒーローは与えられないのである。冷静な立場から見れば、信じがたいほど非情な行為を、人間はいとも簡単に「迷うタイミングがない」という理由で行ってしまうのだろうか。

昨日、1950年から80年にかけて、中国で政策によってたくさんの餓死者が出たことを書いた。その数は数千万人と書いてあった。それだけたくさんの顔のない人をつくりだした毛沢東は、亡くなって30年以上たった今もヒーローの座を退いていないように見える。(中国は底知れない国である。)