2019年。韓国。
「純粋でいられるのは、金持ちだからだ」と貧乏な家族の妻が言う。
この場合の「純粋」は憧れでもあり、嘲りでもある。
つまりは、何も考えないで生きていける、ということだ。
貧困者は、サバイバルのためにあらゆる策略を練る。
頭を使っているのは、貧困者の方だ。
だから、裕福な主人が殺されたとき、観客として彼に同情できなかった。
中身のない裕福な人たち、なんとか上に向かおうとしてチャンスを窺う貧困者たち。
両者の間に、往々にして現れる、消せない違いがある。
におい、だ。
それは、世界はひとつだ、と心で唱える人に立ちはだかる大きな壁だ。
自分が放つ悪臭を自分は許容できる。そして、ほとんどの場合、気づかない。
だが、他人はそれを許容できない。近くに寄ることすらできない。
ぼくも、それを理由にいられなかった場所がある。
いつまでも忘れることができない、恥ずかしい経験だ。
人は、環境によって規定される面が大きい。
本質的に違うところは何もない。
人として生まれて来れば必ず持っている絶大な力を、発揮できる環境を保証する社会。
ぼくらに必要なのは、ただそれだけだ。