1990年代、アメリカで建築を学んだぼくらは、張りぼてでどこかのような世界をつくることを、ディズニーランド的建築と呼んで、さげすんだ。
安易で、哲学がない。閉じられていて、外部がない。予定調和的で、歴史性がない。・・・いろんな言葉で批判することができる。
象徴的な存在は文字通り、ディズニーランドだ。誰もが知っていて、分かりやすい。そして、ほとんど誰もが大好きな施設だ。
誰もディズニーランドそのものをさげすむものはいない。それがリアリティのない場であることが前提で、人はその世界を楽しめるのだから。
だが、建築をつくることは、本物の世界をつくるのだから、〇〇風の世界をつくることとは違う。
本物の世界は、開いていて、外部が存在するのだ。
これがディズニーランド的建築がさげすまれる理由だ。
ぼくも、公然とこう言ってきたけれど、最近になって、ディズニーランド的建築と非ディズニーランド的建築は、はっきりと境界があると言えない、という考えにたどり着いた。
いや、どのような境界も、明確には存在しないのだ、という考えにたどり着いた、といったほうがいい。
〇〇のような、という方法を100%避けて、空間をつくることなどできない。
AさんとBさんが、ディズニーランドの同じアトラクションで全く同じ感想や印象を持って帰るわけではないように、そこには多様性が図らずも入り込んでいるのだ。
不完全であることが多様性につながることもあるし、多様性を狙ってつくることだってできると思う。
それは、SOTOCHIKUの素材が、「ひとつは、人工物が自然に晒されたことの結果として見つけたままのものを使用すること。もう一つは、自然によって変化するように予め仕込んだものを使用すること」の2種類であることに対応している。
そのようにして次元をひとつ上げることができるなら、ディズニーランド的建築であろうと、本物としてつくることができるはずだ。