柄谷行人の『探求2』「ユダヤ的なもの」の章を久しぶりに読んだら、「ぼくらに必要なのはエネルギー(=モチベーション)だ」と突然思い立ち、椅子から立ち上がる。
そして、家中の電池切れしているものたちを次々にチェック。時計、マウス、陽向のおもちゃ・・・、けっこうある。
次に、電池をamazonで注文。様々な種類の電池と、単3、単4については、充電池を8個ずつ。
これで当面、OKだ。家の中に電池切れのものはなくなる。
だが、ここではたとある考えが浮かぶ。
充電池で満足していたが、ぼくらがほとんどタダという感覚で使っているコンセントから得る電気。
厳密に考えると、これを他人に握られていることが、ぼくらの不自由の始まりではないのか。
よし、発電しよう。
・・・と、だんだんエスカレートして、生活に必要なエネルギーの全面的な自給自足について、思いを巡らしたりする。
今のところ、寝言を言っているに過ぎないが、結論はこうだ。
ぼくらは、人生を全うするために涸れることのないモチベーション(=エネルギー)を必要としている。それは、生活を支えられている物理的エネルギーと無関係ではありえない。
ユダヤ的なものとは、自分が自分の想像力の及ぶところの大きな何かに保護されている、という信仰を持たない心の在りようをいう。
そうではなくて、自分の想像力の及ばないところの大きな何かに対峙している、という信仰を持つことをいうだろう。