2007年。周防正行監督。
痴漢に間違えられた青年が無実を主張し裁判で争う・・・。
村上龍が、数年前の芥川賞の審査後に「現代の小説の価値は『情報』にある」と言っていた。ぼくはそれに大きな違和を感じたけれど、そのような小説が評価されるのだな、と思った。
この映画も、まずは情報という意味で高く評価されている映画だ。確かに、ぼくらが生きていくうえで、犯してもいない罪で不当に不利益を蒙る可能性を知っていることは重要だ。正直な話、ぼくにとって衝撃的な内容だったし、とても有用な情報だった。
だが、にもかかわらず、ぼくはそのような情報を必ずしも映画から得る必要はない、と思っている。映画にとって情報は必要条件ではない。それは、小説についても同じだ。そう思っている。
2時間半で司法の抱える問題を伝えるためにはそうせざるを得なかったのかもしれないが、「弁護側=正義」、「警察・検察・裁判官側=悪」という描き方は映画としての価値を下げるものだと思う。
映画評を見ると、皆が高い評価を与える中、「被告人は痴漢をやったに違いない」と書いたものがあった。そのコメントがふざけているものでなければ、そのくらい「人間はわからない」という見方でこの作品を観ることで、本来の映画として価値の高い作品になりうるのではないか。
小説にしろ、映画にしろ、その価値は『多面性』にあると信じているから。