gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

普遍性と一般性

私たちは「奇をてらう」ことを嫌う。

普通とは違うものが欲しい、という気持ちは誰にでもあるが、 「奇をてらう」とは、「わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする」(コトバンク)ことであるから、欲しいからといって安易につくってはならないらしい。

私たちが欲しがっている「普通とは違うもの」とは、「わざと」つくられたものではないのである。わざとではなくつくられたものとは、ちょっと乱暴に言えば、人間がつくったものではなく、自然がつくったもののことだと思う。

これを考えることは困難だけれども、ものの価値を判断するときには重要だ。

柄谷行人は「探求Ⅱ」の中で重要なキーワードを提示してくれている。

存在を認識する方法には、「特殊性−一般性」の回路と、「単独性−普遍性」の回路の二つがある、と。

それが「一般」の中の「特殊」なものだと思うなら、それは単に「奇をてらった」ものにすぎないかもしれないと疑ってみたほうがよい。つまり、他のものと比較してこちらのほうがよい、と認識するときである。それが、ちょっとよかろうが、ずば抜けてよかろうが、同じである。他のものがなければ価値が成立しない、ということが問題である。

だが、それが「単独」的に存在する、という目を向けるとき、それとそれ以外で無限の宇宙になる。そこに一切の比較は成立しない。

どのような対象にもこれら二つの回路の見方ができるが、対象が一方を覆い隠す場合がある。私たちが欲しい「普通とは違うもの」とは、後者の見方で向かい合えるもののことを言うだろう。

私たちがものに向かい合うとき、その背後に同類のもの(=一般性)が見えるか、無限の宇宙(=普遍性)が見えるか?

同類のものしか見えてこないのであれば、見ていても退屈なだけである。無限の宇宙が見えたら、私たちはここにいながらにして、どこへでも飛べる。

「よい店だね」と人が言うとき、は、人はここではないどこかを飛んでいるのだと思って聞いている。

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